大和市議会 2021-03-23 令和 3年 3月 定例会-03月23日-05号
関東大震災のとき、本市の人口は約4500人――大正時代はずっと4500人ぐらいでしたが、亡くなった方は二十数名でございます。これを今の人口に当てはめますと約1200人ぐらいの方が亡くなるということになります。
関東大震災のとき、本市の人口は約4500人――大正時代はずっと4500人ぐらいでしたが、亡くなった方は二十数名でございます。これを今の人口に当てはめますと約1200人ぐらいの方が亡くなるということになります。
その時代背景は、大正時代、今回の映画は蒸気機関車が舞台となっております。相模線は大正10年に蒸気機関車で砂利の運搬を開始しております。その2つの共通点だけでうまく組み合わせることができるのではないかというように思っております。
◎市長(福田紀彦) 那覇市との交流についての御質問でございますが、本市は国の内外から多くの人々が集まって発展してきた多文化共生のまちであり、那覇市とは、大正時代に沖縄から多くの方々が就職されるなど、こうした沖縄にルーツのある市民を中心に様々な交流が行われてまいりました。
私の地元である保土ケ谷区には、大正時代から水道水をつくり続け、長年横浜市民の生活を支えてきた西谷浄水場があり、地域のランドマーク的な存在となっております。また、この浄水場には毎年多くの小学生が社会科見学に訪れ、私も小学時代に社会科見学で訪問しました。今年度からスタートした横浜水道中期経営計画においても、市民生活に密着し大変重要な施設である西谷浄水場について再整備事業を進めることとしています。
初めに、資料右下の(1)河港水門につきましては、大正時代に構想された大規模な運河計画に伴い、昭和3年に完成し、現在は平成10年度に、かつての大運河計画の存在を物語る貴重な歴史的遺産として国の登録文化財に登録されております。 次に、資料右上の(2)平瀬川における取組についてでございます。
大正時代に教育では随分新しい動きが起って、個性ある教育が日本の中で創造性豊かに展開されたそうですが、戦争がその動きをざっくりと阻んだ。そして敗戦、復興、そして経済成長のサイクルに教育が取り込まれた。今、混迷の時代を迎えて、まさに生きる力が教育委員会の基本方針に掲げられるようになりました。かくしてコミュニティ・スクールや小中一貫教育の説明に追われ、当事者は説明を聞くという状態が続いています。
島根県では全国で唯一、全人口が大正時代を下回っていたそうです。映像からは人が減ることで路線が廃止され、陸路で通えない地域も出てくる。さらに図書館の廃止や医療サービスも削減。空き家の畳にはキノコが生え、ぼろぼろとなり、猿も野生動物もすみついていました。日本は、これから今まで経験したことのない人口減少社会へと突き進んでいく。それは首都圏も例外ではありません。 市の財政も家計と同じ。
こうしたことに起因いたしまして、大正時代に、都市部への人口流入等に対応するため、東京都では大型の公営墓地として、大正13年に多磨霊園を開園するなど、全国的にも公園墓地が設置される背景となりましたほか、都道府県によっては、墓地の新設許可は市町村以外に認めないと、こうした旨の都道府県令が交付されたことに伴いまして、墓地としての許可を得るために自治体が用地を買収したり、名義上、土地の寄附を受けて墓地を無償貸与
大正時代に行われた按針塚の修復に対し、皇室や政財界の方々が寄附をされたという史実は、按針の功績が当時から高く評価されていたということを示すもので、大変興味深いと思っています。御提案いただきましたとおり、このような史実についても、機会を捉えて発信していきたいというふうに思います。 次に、按針400回忌についてです。
振り返りますと、昭和の頃には、大正浪漫という言葉とともに大正時代が暮らしやすかったと評価され、平成に入ると、昭和の香りがするという表現によって、貧しかったけれども誰もが未来を明るいものと信じていた昭和を懐かしんでいました。 この5月に私たちは新たな時代を迎えます。この新たな時代を古きよき時代として、平成を顧みることの必要がない輝かしい時代にしたいと思っています。
◎市長(福田紀彦) 那覇市との友好都市間交流についての御質問でございますが、本市と那覇市との交流の歴史は、古く大正時代に始まり、産業都市としての本市の発展の歩みに深く由来しております。こうした経緯から、平成8年に友好都市提携を行い、それ以降、青少年のスポーツを初め、民俗、伝統、文化など市民交流を中心に都市間交流を行ってまいりました。
初めに、大規模地震への対応についてでございますが、本市の被害想定につきましては、平成26年5月に防災アセスメント調査を実施しておりまして、旧相模原市の区域の直下で起こる東部直下地震、津久井地域の直下で起こる西部直下地震、大正時代に起こった関東大震災をモデルにした3つの地震を想定しております。
この事業の中心地の商店街は、明治時代、大正時代から続いているお店で、古い建てかえが終わった店の人は、商店街の特性を生かして消費者をまた楽しく迎い入れた商店街を復活させたい。川崎市のまちづくりに期待を寄せています。先ほどの答弁をいただきましたが、関係局との連携が重要になってきていると考えています。答弁にあったように、ぜひ関係局との連携と商店街づくりを強めていただくことを要望しておきます。
338 ◯山本委員 237ページ、郷土資料館事業の3番の古民家岸邸運営事業費ですけれども、岸邸は大正時代の建物ということでかなり古くなっているのはわかっておりますが、今後どうするのか、その辺の展望をお聞かせいただきたいと思います。
昭和30年代に整備された1,000ミリの水道管のほか、現在は使われていない大正時代の500ミリ管、現在は藤沢市に譲渡されている昭和10年代に整備された700ミリ管の下水管が埋まっています。水道管路用地の道路等の表面管理は藤沢市がしていますが、平成5年に用地の所有者である横須賀市に断りなく市道認定した経緯をまず説明ください。
大正時代から戦後にかけて、小田原市内には民営の青果卸売市場3社が開設されており、市街地近郊に立地していました。やがて昭和30年代に市街地の拡大によって住宅街に包み込まれ、市場のごみ悪臭が問題になり、また、自動車の普及により市場に集まる自動車のために周辺道路で交通渋滞の発生が日常的になってきたため、この対策として卸売市場移転と新たに公設市場の建設が行政課題となり、検討が進められることになりました。
明治29年の記録では、挽物師が12人、また、大正時代から昭和初期には木地屋が30軒以上もあったとされます。このころが、大山木地屋の全盛期と思われ、バラエティーに富んだ品物を生産していました。 これら大山の木地製品の代表が大山こまですが、これは江戸時代の大山信仰と結びついて発展してきたと言われております。
大正時代に宅地造成を行った際、その中央に公園と諏訪神社の社地が設けられました。この公園を昭和18年に本市が買収し、その後、昭和38年に児童公園(当時)として開設いたしました。昭和41年にはプール施設が設けられ、子ども向けの水深の浅いひょうたん型が特徴ですが、平成28年プールの一時運用休止がホームページ、公民館だより等で示されましたので、以下伺います。
この石積み護岸は大正時代に埋め立てられており、余り人目に触れない状況になっていましたが、幕末、明治初期の海岸線を示す大変貴重な土木遺構だと言われています。 そこで、この石積み護岸についてどのような価値があると考えているのか、教育長に伺います。 石積み護岸がある場所では現在大型の商業施設をつくる計画になっており、護岸の取り扱いが注目されていると聞いています。
こういった駅をつくって譲渡するというのは、大正時代に西武グループの創始者の堤康次郎さんが国立駅をつくって鉄道省に寄附したなんて有名なお話がございます。鉄道事業者がなかなか言うことを聞かなければ、海老名駅もそうなのですけれども、そういう沿線の自治体が駅をつくらなければいけないのかなとは思っております。